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ICTは人間が人間らしく生きるためのツールであるべき

最近、過剰なくらい過熱しているのが、AIやICTをテーマにしたビジネスネタである。
特に最近は、来る日も来る日もあらゆる分野にAIを活用することができそうな印象を

与えるメディアの報道や記事が多い。
AIはとても便利で有益のように思え、期待感だけが膨らむだろう。
しかし、専門家ならいざ知らず一般の生活者から見たらICTでも良くわからないのにAIの

オンパレードにチンプンカンプンなのではないだろうか。
また、最近の日経新聞に米国と中国がAIの研究分野において突出していて、

日本はそれに比べて相当な出遅れの状態であるという記事があった。
超大国だけに何やら不安がよぎる。
AIに限らないが、米国や中国は最先端技術の分野における研究開発に関しては、

随分前から2強の様相。
しかし、AIの正体が分からない人から見たら、超大国がAIで先んじていくこれからの世界が

どうなっていくのか不安になっても仕方ないだろう。
すでにAIに関する書籍は日本でも山のようにあり、中にはAIが人間を凌駕するという

論調もあれば、恐ろしいことにAIに人間が支配されると危惧する声もある。
ところで、初めて知った人にはとても難しそうな専門領域のAIともいえるが、
AIとは人間の脳の働きをICTでどこまで置き換えられるかが最大のテーマになる。
単純に置き換えて色々と考えてみるとわかりやすい。
「脳の働き=人間の働き」と考えてみるとイメージしやすいのではないか。

 

 

話は変わるが、私たち現代人の祖先はホモサピエンスと呼ばれていて、
約10万年前に東アフリカで誕生したと言われている。
何十億年前の地球誕生の歴史まで考え出すと気が遠くなるような話だが、人類の誕生に関しては、

私が小学生の頃のネアンデルタール人を学んだ時代よりも相当なことが解明されている。

 

 

 

 

人類の進化に不可欠だったのが道具(以降はツールと表現する)である。
人類は石器を使いだし、さまざまなツールを発見し、ツールを使い生活様式を進化させ、
人間自体も進化してきた。
人間に欠かせないツールは現代に近づくにつれて加速度的に進化している。
人類の長い長い歴史から比べるとほんのわずかに過ぎないこの200年の間に産業革命が

はじまり、劇的に人間の生活は変化を遂げてきた。
仮に1000年前の人たちが、空も飛び、宇宙にも探索に行く今の様子を見てどう思うか。
それこそ、ホモサピエンスの時代からするとありえない世界だろう。
しかし、長い人類の歴史に照らして考えると現代の急速なツールの進化も、これからも

続くであろう進化も、人類誕生の時から人間がツールを発明したり改良し続けている一連だと

捉えることもできる。
今は、その最たるものがICTなのだ。
ICTにしてもAIにしても単なるツールだと考えてみることも私は常々大切なことだと思っている。

これからは、数多くのメディアの予想通り、AIによってICT活用そのものの在り方が、
劇的に変わっていくのは間違いない。
ようやく、人間にとって使いやすい高度なツールになっていくだろう。
いままではそうではなかった。

ここからはAIも含めることも前提にしてICTの話をしていこう。
先進国における一般的な仕事で考えてみよう。
まずは、大きくホワイトカラーとブルーカラーの仕事に大別して考える。
頭脳労働と肉体労働の区分けにも近いが、後者は汗をかく仕事でもある。
私は、日本、シンガポール、香港などの先進国とベトナム、ミャンマー、アフリカなどの
これからの国を数多く往来している。
そこで、よく考えることのひとつが“汗をかく仕事”の尊さである。
今の日本でも建設現場では職人が働き、畑では農家の人々が汗を流している。
一方、日本では、東京のど真ん中の超高層オフィスビルで、関東一円を眼下にできるような

フロアで、ホワイトカラーの人たちがICTを当たり前に使って仕事をしている。
この2種類の仕事のギャップ感は、いつも私の脳を刺激してくれる。
人間としてどっちが本来の人間らしい仕事なのか。
話を人間の進化に戻して考えたい。
人類の歴史に照らしてみれば、後者の働くスタイルはICTが登場しツールが
劇的に進化したここ数十年の歴史でしかない。
一方、体を使い汗をかく仕事は使うツールと環境は変わってはいるが、

人間が何万年も営んできた仕事である。
そんなことを考えると、ICT活用に四苦八苦しているような最先端もどきの仕事は、

単に一過性の仕事であり、次の時代には消えてなくなるのではないか思う。
そう考える根拠のひとつは、今の日本では都会の大企業で働いている人が楽しそうに

思えない。
激しい競争の中、ひたすら合理化、効率化を求められている。
最近でもそうだが、有名な大手企業が過酷な労働環境でストレスを溜め、

社会問題にもなっている。
実際、アフリカなどに出かけて日本のことを考えてみると、遠い遠い世界で一見先進的な日本の人たちがストレス社会に苦しみ、人間らしさを失っているだけではないだろうかと

悲しく思える。

私もたまたま30年前にICTの仕事にかかわるようになった。
成果や貢献が見えにくいこのICTの仕事から逃げたくなったこともある。
そして、つまらないと思ってきたこともある。
特に、ソフトウェア開発などは家やビルを建てる仕事と違い、ごく一部の人以外には形がない

ためか、あまり認識されない特殊な仕事である。
また、目まぐるしく変化するテクノロジーに驚きを隠せない。
少し冷静な視点で振り返ると、日本のような先進国でICTを活用することは、必ずしも

良いことばかりではないと思っている。
今の日本は世界平均からしたら突出して便利な国だと思う。
エレベーター、エスカレータは言うまでもなく、動く歩道まである。
便利な反面、ベトナムやアフリカなどの国と比べると不健康極まりないという見方もできる。
電車はカードをかざして乗車できる。
それでも不便だと感じることはなくはないが、
それは単なる錯覚に過ぎないのだろう。
日本国内をこれ以上便利にするということは、人間の本来の能力の退化を招く危機的状態

にあると思う。
こんな世界でICTで何を目指すのかといえば、『もっともっと便利に』である。
今の日本はAIの話題に振り回されているが、すでに日本はICTで十分築かれた社会であり、
その結果、人間が幸せを感じているのではなく、不快感や違和感やストレスを感じている
状態を生み出している。
ICTはツールであって、本来は人間が人間らしく、幸せに暮らすためのものであったはず

だが、いつしか日本は正反対の方向へ突き進んでいるのである。

今のスマホにしても一過性である。
いずれはもっと操作が楽なツールに進化するだろう。
スマホがなかった時代に比べて確かに劇的に便利にはなった。
一方で、先進国の日本ではさらなるストレス増大の原因にもなっている。
健康にもよくないのは明らかだ。
こんな小さな画面上で指を巧みに駆使して、すべてのことを楽しんでいるのだから疲れるの

は当たり前だろう。
それこそ、ホモサピエンスがスマホを持ったとしたらどう思うだろうか。
そして、どう使うだろうか。
近い将来、もっと人間がツールとしてICTを今よりも簡単に、楽に意識せず使えるように

テクノロジーや商品は進化するだろう。
そうなったときは、スマホの使い方に詳しい人やスマホの達人は消えてなくなるはずだ。
誰でもが簡単に使えるツールに進化するからだ。

今のAIも含めたICTの進化はいまだ過渡期である。
人類の歴史から考えれば、1000年ぐらいかけて人間がICTに適応する期間があれば

よかったのだが、とにかく進化が速すぎる。
あまりにも、未完成のままのICTを先進国の人たちが使いだし、
本来は使う意味のないところにICTを使い、問題を引き起こし、四苦八苦している。
言うなれば、現代人はICTのテスターとして生活している状態である。
何回かこのブログでも述べてきたが、不便な国の方がよっぽとシンプルだけど生活の向上に

役立つスマホの使い方をしている。
アフリカなどでのICT活用は人間の本質的な能力が発揮されている。
それは、人間らしい生活環境で過ごしているからに他ならない。

最後に、私が創業時から思っていたことを書きたいと思う、
十数年前の拙著にも書かせてもらったが、ICTは単なるツールである。
仕事ができない人がICTを使ったからといって仕事ができるようにはならない。
もともとアナログの環境で仕事ができる人がICTというツールを使って

何倍も効率よく仕事ができるようになる。

 

だから中小企業の・・ 


 

あれから、時間が経過し、企業にはICTが当たり前に導入され、見えない部分はあるにしても

社会生活のいたる所でICTが組み込まれている。
ICTは仕事ができる人とできない人をどんどんとふるい分けていくツールであると思う。
例えば、営業に限らず、いわゆるマメな人は、古今東西、人に信頼されるし仕事ができる。
このマメとは気配りやもっと言えば慮る力でもあるが、人間はそもそも、誕生した時から

社会性をもった珍しい動物である。
だから、人間らしさというのは、相手のことを考えることであり、マメさでもあるのである。
スケジュール管理からコミュニケーションツール、そしてSNSとマメな人が使いこなせば
100人力も不可能でない時代だ。
一方、マメではない人が使うと、オープンな場で、その稚拙さがばれていく。
では、AIが本当に使えるようになった時にAIがマメさを代行できるのか?
私の答えはノーである。いつまでたってもAIが人間関係で悩むことはないだろうし、

相手のことを考える感情は持たないし、持てるはずがない。
だからこそ、これからは人間らしさが、生活の場は言うまでもなく、働く世界でも

重要視されていくのである。

 

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