最近、盤上が騒がしい。
あるプロ棋士が、対局中に席を外してスマホを使い、将棋ソフトで不正を行っていたのでは、という疑いがかけられている。
将棋よりも手数が多く、コンピュータには難しいとされてきた囲碁でさえ、プロに勝ってしまう今のAIソフトであるため、将棋ソフトは更に人間よりも強くなっている。
プロの現場だけではない。
10月21日の日本経済新聞朝刊の記事によると、アマチュアの間でも、将棋ソフトを使った同様の行為「ソフト指し」が問題になっているという。
アマチュアの間ではオンライン対局サイトが盛んであるが、オンラインならなおさら相手が何をしているか見えないため、スマホの将棋ソフト片手に、パソコンでオンライン対局をしていても分からない。
ではなぜ見えないのに「ソフト指し」が行われていると分かるのか。
それは、将棋ソフトの指し手と実際に指した手との一致率が極めて高い場合、ソフト指しと疑われるようだ。それをボランティアがチェックしているという。
全ての指し手が一致するのは10億局に1局だそうで、全てまでとはいかずとも、8割以上が一致するだけでも結構な確率ということである。
私も小学生の頃から父に教わって将棋を指してきた。
ファミコンやパソコンの将棋ソフトが出た頃は、将棋ソフトをこてんぱんにやっつけてストレスを発散していた。
昔はそれだけ将棋ソフトは弱かったのである。
ちなみに、好きな戦法は定番の矢倉戦法である。
だが、今の将棋ソフトにはさすがに歯が立たない。
別の将棋ソフトを使って戦えば勝てるかもしれないが、ただ虚しいだけである。いったい、自分は何をやっているのだろうと。
話は変わるが、AIが活躍するフィールドが広がっている。
前回のブログにも書いた医療分野の他にも、弁護士や裁判官の仕事にも、AIが通用しそうだという研究が次々に発表されている。
AIが活躍することは大いに結構なことであるが、AIで人間の行いをそっくり置き換えてしまうことには賛同しかねる。
AIはあくまで人間をサポートしてくれるものであり、主体であってはならない。
人間が「次の一手」を実行するために、ヒントやアドバイスを与えてくれ、人間がその判断に集中できるような関係性でありたい。
そういえば、将棋の話題で、ひとつ思い浮かんだことがある。
弊社近藤の著書「もし波平が77歳だったら?」の一節である。
それは、シニアがオンライン上でアナログのゲームを楽しむ方法として、遠隔地に対局相手がいて、目の前には本物の盤があリ、そのままオンラインを使って対局をする。
相手の代わりとしては、子供が代打ちをしてくれる、というものである。
これぞ、ICTの使い方ではないだろうか。
やはり、盤に駒を打つ、あの感じは気持ちいいものである。
対局相手の表情や雰囲気を察するのもいい。
持ち駒をやたらと触る癖や、貧乏ゆすりもご愛嬌である。
そうして会心の「次の一手」が出れば、もう満足である。
将棋ソフトを強くしてきたせっかくのAIも、人間の一番の楽しみを奪っては元も子もない。
だがそれをどう使うかは、自分自身である。
何においても、ICTやAIと上手く付き合えるような、そんな感覚を磨きたいものである。
~書籍の紹介~
『「人間らしさ」の構造』 渡部 昇一著
AIの書籍を読んでいると、人間に関する本が読みたくなる。
ここしばらくは、そういったことを繰り返している。
そんな中で読んだ一冊である。
40年近く前の本であるが、もちろん、「人間らしさ」はそんな短期間で変わるものではなく、今読んでも大いに考えさせられる。
印象に残っているのが、「心のうずき」に関する部分。
「心のうずき」、つまり内なる声は未来を予知するものらしいと。
内なる声に、もっと耳を傾けようと感じた次第。
AIが人間の「心のうずき」をどう捉えるのか、興味深いところである。
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