アジアで長年ビジネス活動をしていると
必ず聞かれる質問である。
経営者やビジネスパーソンはもちろんのこと、
学生との関わりが比較的多い私は、
学生のストレートな質問には特に真剣に
答えるようにしている。
自分の若い頃の体験がそうさせるのだが・・・。
会社を創業したのは、今から約17年前、31歳のとき。
創業間もないころから、中国、台湾、韓国など
さまざまなアジア事業にトライしてきた。
新規事業を探しにアジアに行ったり、
アジアで人材を発掘し日本で就業させたり、
韓国やベトナムで合弁会をも設立したりもした。
起業=アジアと思われがちだが、実はアジアと私の関わりは、
起業した時がアジアの出発点ではないのである。
アジアとのつながりのきっかけは、
20代頃の小さな会社での体験から始まった。
26歳の時にゼネコンを退職し、一年弱、派遣のSEとして働いた。
その後、神戸の名もない小さな技術者派遣の会社に勤めることになった。
人生で最初の転職で迷っていた私を決断させたのは、
その会社の社長の“システム開発室をあなたに任せるから”の一言だった。
それまで、偶然、そこそこ大きな会社で数年働いてみて、
どうも人の部下でいることに違和感を覚えていた私は、
その一言でピンと来たのである。
ところが、入社していきなり驚いた。
私の想像をはるかに超えた事態が待ち受けていたのである。
入社初日に、社長から“近藤君の部下だからしっかり面倒見てね”
と言われて任されたのが5名のアジア人だった。
「本当ですか?」と思わず聞き返してしまった。
その会社には、他にもマネージャー待遇の日本人エンジニアはいたが、
私だけには日本人の部下が1人もいなかったのだ。
この会社の社長は非常に発想が斬新で先見の明があった経営者
だったと思う。
これからはアジア人のITエンジニアが当たり前に日本でも
活躍する時代が来ることを察知していた。
今では常識になったが20年前のことである。
エンジニアの就労ビザさえ、まともな制度が
確立されていなかった時代だった。
また、ちょうどその頃は、日本ではITエンジニア花形時代が始まったばかり。
ITエンジニアとしてスキルを伸ばしたいと思っていた私としては話が違う。
日本人と働きたいと社長に噛み付いたことを覚えている。
その時、どういう会話をしたかは覚えていないが、
きっと、負けずぎらいの私に火をつけるようなことを社長は話されたと思う。
根が楽天的なこともあり、だったら結果を出してやろうと、
次の日からは頭を切り替えて5人のアジア人との奮闘が始まった。
内訳は、中国人男性、中国人女性、マレーシア人男性2人、マレーシア女性1人。
全員、来日当時は全く日本語がしゃべれなかった。
この上海出身の中国人男性とは、今でも良き友人として付き合いが続いている。
中でも最も印象に残っているのがマレーシア人たち。
私は40代後半のこの年になってようやく英語の勉強を始めたが、
実はこの時が人生最初の英語習得の絶好のチャンスだったのである。
今もそうだが、日本に来るようなアジア人は、大抵英語を話す。
だからこそ、コミニュケーションのために気合を入れて英語の勉強も始めた。
だが、長くは続かなかった。
私の三日坊主の性格もあるが、なによりも彼らは貪欲に日本語を
驚くスピードでマスターしてきたからだ。
マレーシア人3人は、全員イスラム教。
持参のタイムテーブルに従って、たとえ大事な打ち合わせ中でも、
ビルの屋上でお祈りを捧げていたし、ラマダンといわれる断食もやっていた。
日本の中でイスラム文化に接するとは夢にも思っていなかった。
のほほんと平和ボケで暮らしてきた私としては、
この時に脳に電流が走ったのを覚えている。
振り返れば、この時、私のスイッチがオンになったのではないか。
全くの異文化の人たちと、言葉も通じず、仕事をした1年は今では懐かしい思い出だ。
この時の体験が原体験として染み付いていて、だからこそ、どこの国の人でも
普通に関わることができる。
もうひとつ、この時の出来事として、脳裏に焼きついていることがある。
翌年に、中国であの忌まわしい天安門事件が発生したのだ。
その結果、翌年に予定していた新たな中国人の採用もなくなり、
会社も私の運命も大きく変わってしまった。
私は、今、アジアでビジネスをしているが、
この時の感覚は今でも大切に思考のベースにおいてある。
アジアや世界と関わることはこういうことなんだと・・・。
それまで、よその国のニュースとしてしか見ていなかったことが、
身近に感じられる。
このことも、大きな衝撃だった。
実は、今月の前半、東京の責任者である大西と、
ベトナム人の幹部社員とでマレーシアを訪れた。
中国へは何度も行っていたがマレーシアは初めてであった。
行く前は、さほど気にはしていなかったが、現地に足を踏みいれて、
20年前の記憶が蘇ってきた。
20年前の彼らはこの国から来ていたんだ、と。
今でこそ、高層ビルの建設ラッシュだが20年前は
どんなだったろうと思いを馳せた。
と、同時に、あの時の彼らは何を期待して日本に来ていたのだろうか・・・。
ふと、街角でバッタリ再会したいなと、思いつつ、
“私のアジアとの縁の始まりはこの国なんだ”と再認識したのである。
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