交通インフラは麻痺し、飲料水・食料不足に陥った。
そのとき、人間はどんな行動を取るのかをまざまざと見せつけられた気がする。
給水車が来たとき、誰もが並ぶことなく水を求めて殺到したのだ。
ニュースで報道された映像のなかには、
きれいに並んで配給を待つ人の姿もあった。
しかしあれはごく一部に過ぎない。
実際の現場は戦場の如く…とまではいかないものの、
殺気立った雰囲気に包まれていた。
つまり人間は追い込まれると、国籍や国民性などに関係なく、
みな同じ行動を取るのである。
中国などアジアの人は列に並ばないと非難されるが、
日本人も同じ環境で育てば似たような行動を取るはずである。
「アジアの人たちはごまかす。失敗しても正直に話さない。」ともいわれる。
しかし日本人だって子どものころは、
悪いことをしたら親や先生にバレないように黙っていたはずだ。
子どもだけでなく、日本の会社でもクレームを組織で共有することが
最大の経営課題のひとつになっている。
なぜならば、自らの過ちを会社に報告せず、隠そうとするからである。
それは日本人だけに限ったことではなく、人間共通の心理なのだろう。
これでもまだ「アジアの人たちは日本人とは違い、ごまかす」
と言い切れるだろうか。
いまのアジアといまの日本を比べ、
アジアを非難することについても警鐘を鳴らしたい。
「アジアは農薬を使い、工場からは排水を垂れ流して環境破壊している。
けしからん!」と憤る日本人がいる。
しかし日本も昔は農薬を大量に使っていた。
私は徳島の農家出身なので、大量の農薬が散布される光景を見てきている。
もちろん農薬だけでなく、日本の高度経済成長時代には公害問題が深刻化した。
日本の若い人は教科書で四大公害病を勉強したはずだ。
つまり、昔の日本はいまのアジアと似たようなことをやっていたのだ。
その事実に目を向けないまま、あるいは知る努力をしないまま、
いまのクリーンな日本といまのアジアを比べるから視点がブレてしまうのだ。
アジアで人材育成を行うのなら、違いに目をつけるよりも、
「どの国の人も根本は同じ人間だ」という視点に立って考えたほうがいい。
共通のマネジメントを土台とした上で、アジア各国のビジネスの歴史、
あるいは会社や仕事に対する考え方、理解度といったビジネス深度に応じて
教育していけばいいのである。
つまり、「マネジメント」と「教えるべきこと」、
この2つを切り分けて考える必要があるのだ。
アジア人材のマネジメントを難しくしている(と思わせている)ものは、
国ごとに異なる国民性や人びとの特性ではなく、
そもそもマネジメントという仕事自体の難しさなのだ。
つまり、日本人であれ、アジアの人であれ、
その難しさが変わることはないのである。
今回ブログで連載したアジア人材活用に関する書籍が、
来月カナリア書房より出版される予定である。
ぜひ、お手にとってご覧頂きたい。
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